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Ken & Mary's Second Life
江戸三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
2011年(平成23年)8月18日

江戸三三ヶ所
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K&MSecond Life
四国.西国.坂東.秩父
札所歩き⇒



江戸三十三ヶ所 一番 金龍山 浅草寺 (東京都台東区浅草2-3-1 )

2011年8月18日 江戸三十三ヶ所二回目は地下鉄・浅草駅から歩き始める。
浅草寺は東京都最古の寺で山号は「金龍山」という。
本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)で天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。 坂東三十三箇所観音霊場の札所十三番、そして江戸三十三箇所観音霊場の札所一番でもある。



雷門は表参道入口の門で、向かって右に風神像、左に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。
慶応元年(1865年)に焼失、長く仮設の門が建てられていたが昭和35年、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。松下幸之助氏が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のため寄進したもの。門内には松下電器産業(パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。
風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。
門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。


境内から工事中の
東京スカイツリーが見える。

仲見世は雷門から宝蔵門に至る表参道の両側にみやげ物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世」と呼ばれている。
商店は東側に54店、西側に35店を数え、寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたもの。


浅草寺本堂は本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年東京大空襲で焼失。現在の堂は昭和33年に再建されたもの。
外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの「厨子」がある。
宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置され、毎年12月13日に開扉法要が行われ、特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も参拝者が目にすることができるのは「お前立ち」像のみで秘仏本尊像は公開されることはない。
宮殿の手前左右には脇侍の梵天・帝釈天像、宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(通称裏観音)、堂内後方左右の厨子内には不動明王像と愛染明王像を安置する。


江戸三十三ヶ所
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五重塔は慶安元年(1648年)の建立。本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年東京大空襲で焼失し現在の塔は昭和48年再建された。 
五重塔から二番・清水寺へは木馬館前を通る。懐かしい感じの小さな大衆演劇場で入ってみたい気持ちを残しながら次に進む。  

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江戸三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
2011年(平成23年)8月18日
江戸三十三ヶ所
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2011年8月18日、今日2寺目の江戸二番札所清水寺(せいすいじ)は一番・浅草寺からは直ぐ近くで、国際通りを横切り合羽橋道具街に入り直ぐの交差点にある。 


江戸三十三ヶ所 二番 江北山 清水寺 (東京都台東区松が谷2-25-10 )

【清水寺】
出典:清水寺案内より)
江北山宝聚院清水寺は、今を去る1170数年余り昔、淳和天皇の天長6年(829)、天下に疫病が大流行すると、わがことのように悲しまれた天皇は、天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主であられた慈覚大師に疫病退散の祈願をご下命されました。
慈覚大師は、京都東山の清水寺の観音さまにならって、みずから一刀三礼して千手観音一体を刻まれ、武蔵国江戸平河、今の千代田区平河の地に当寺を開いておまつりしたので、さしもの疫病の猛威もたちどころにおさまったといいます。
千手観音、くわしくは千手千眼観世音菩薩。千本の手と、その掌に千の眼を持ち、世のすべてを見透し、私たちの苦難消除に縦横の威力を振るって下さる、あらたかな佛さまです。 
およそ380数年ばかり前の慶長年中、慶円法印が比叡山正覚院の探題豪感 僧正の協力を得て中興され、徳川家康の入府で江戸城の修築のため馬喰町に移 り、さらに明暦3年(1657)の振袖火事の後、現在地に再興されたのでした。
『江戸名所図会』にも清水寺観世音菩薩として掲出されている当寺は、江戸三十三観音 霊場 めぐり二番札所としても良く知られ、日々益々霊験を発揮しています。 
平成7年より、およそ2年にわたる大普請を行い、平成9年11月30日に 盛大な落慶法要が営まれました。
地上2階、地下1階からなる近代的で瀟洒な佇まい に生まれ変わり、一歩中に入ると、都心のざわめきを忘れる穏やかで安らぎに満ち た空気に包み込まれます。
 なお、ご本尊・千手千眼観世音菩薩像は、台東区有形文化財に指定されてい ます。

合羽橋道具街の一角にある江戸二番札所清水寺(せいすいじ)
納経は石段を上がって二階のインターホンを押してお願いする。
待つ間本堂に上げてもらいお参りする。

江戸三十三ヶ所
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二番・清水寺(せいすいじ)から次は六番札所 上野寛永寺・清水観音堂へ向かう。


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江戸三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
2012年(平成24年)5月8日
江戸三十三ヶ所
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2012年5月8日
今日は3・4・5番3ヶ寺巡りと東京下町歩き。
2寺目は、最初に参拝した日本橋小伝馬町・.五番大安楽寺から水天宮方面に歩いて10分位の人形町交差点の大観音寺。

江戸三十三ヶ所 三番 人形町 大観音 (東京都中央区日本橋人形町1-18-9 )

大通りを歩いている人はほとんど気づかないひっそりとしたお寺で、石段を上がるとそこが本堂でその横の社務所で納経所を受け付けている。

江戸三十三箇所第三番札所     

大観音寺(おおかんのんじ)は、鎌倉の「鉄ノ井」から発見された鉄観音像を本尊としている。
鉄観音像は、明治の神仏分離令によって東京深川の御船蔵前に移され、明治9年、この地の仮堂に安置された。これが大観音寺のはじまりといわれている。
現在の大観音寺は、昭和17年に創建された。昭和27年、天台宗から聖観音宗に改宗されている。
江戸33観音の3番目の札所。
 御詠歌は、「くろがねの かたきちかいに み仏は はなさくがごと ちまたにぞたつ」。

鉄観音像は、頭部のみの像で、1.7メートルの鋳鉄製。
もともとは鎌倉の扇ヶ谷にあった新清水寺の本尊だったが、1258年(正嘉2年)1月17日の火災により寺は焼失、鉄観音像の行方もわからなくなっていた。
江戸時代になって「鉄ノ井」から頭だけが掘り出されたという。
明治維新までは、「鉄ノ井」の前にあった鉄観音堂に安置されていたが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈の流れの中、由比ヶ浜に捨てられるところを、船で東京深川の御船蔵前に運ばれたとされている。その後、大観音寺へ移された。 毎月17日に開帳されている。   


入口にお百度石がある。
ここでお百度参りをしたのだろうか。


TBSドラマ『新参者』に登場したゆうまという雑貨店があったので写真に収める。



TBSドラマ≪新参者≫に登場した『からくり櫓』と雑貨店『ゆうま』 

人形町・大観音から、今日最後のお寺 両国回向院は隅田川の向こう岸なので、明治座横浜町公園に隅田川み向かって歩く。



浜町公園から隅田川新大橋を渡って両国方面へ。



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江戸三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
2012年(平成24年)5月8日
江戸三十三ヶ所
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2012年5月8日 
今日は3・4・5番3ヶ寺巡りと東京下町歩き。人形町から新大橋を渡り隅田川テラスを歩いて両国へ。

5番〜3番〜と廻り今日最後のお寺は4番・両国の回向院。  人形町から甘酒横町信号を左折して真っ直ぐ進むと、左に明治座、その先突き当たりが浜町公園。  浜町公園前のベンチに腰掛けてお昼を食べる。 浜町公園を出て左に向かい隅田川にかかる新大橋。隅田川はスカイツリー人気で観光客も多く満員の観光客を乗せて船が行き来している。新大橋を渡り隅田川遊歩道におり川沿いを両国方面に歩く。

江戸三十三ヶ所 四番 諸宗山 回向院 (東京都墨田区両国2-8-10 )

高速道路の下辺りで町に戻ると直ぐに両国に入り、まもなく右手に折れると回向院の裏に出る。


江戸三十三箇所第四番札所 無縁寺・回向院 (出典・回向院HP)   
日本一の無縁寺の誕生
 回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
この起こりこそが「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として現在までも守られてきた当院の理念です。
 無縁寺・回向院は一方、境内堂宇に安置された観世音菩薩や弁財天などが江戸庶民に尊崇されることとなり、様々な巡拝の札所となり、また江戸中期からは、その地の利が尊ばれて全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で殷賑をきわめました。そして江戸後期になると勧進相撲の定場所が当院に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる“回向院相撲”の時代を日本相撲史上に刻したのです。

 回向院の歴史はこのように見ると一見隆盛一途をたどったかのように受け取られがちですが、当院自体も度重なる大火に被害をこうむり、明治の廃仏毀釈、大正の大震災、更には第二次大戦下の大空襲などによって、幾度か存亡の危機に立たされたのです。しかし、その時その時の歴代住職は檀信徒の浄信にささえられ、由緒あるこの寺院の法灯の絶えぬよう骨を惜しまず身を砕き、その度ごとに一大危機を乗り切ることが出来ました。その根本は、申すまでもなく、御仏の御加護、万霊のお力によるのであり、開祖法然上人、また開山上人に対する報恩の念のひとしお深くされる由縁です

時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。


今日3番目のお寺・回向院は大寺で裏門から入ると沢山の参詣客で賑わっていた。
直ぐ右手の立派な石碑は『ねずみ小僧次郎吉の墓』だ。

ねずみ小僧の墓と力塚

正面には『力塚』
正面の本堂に入りお参りする。江戸三十三ヶ所で一番立派で大きな仏像が鎮座している。
納経所は本道横で受け付けている。


回向院正面を出て右に右に廻り又裏手近くの本所松坂町公園『吉良邸跡』に行く途中、今本場所開催中で国技館に向かうお相撲さんに出くわす。(帰って調べると時津風部屋の時天空関だった)
「頑張ってください」と声を掛けると微笑んで通り過ぎて行った。
吉良邸はごく小さな場所にあり、団体さんが入ってきて人でいっぱいになる。


今日の札所めぐりはここで終了だが、下町歩きを続け両国国技館〜安田庭園〜スカイツリー〜と約l5時間の散歩で歩行数 26716歩 17.3km歩く。

来年4月に初めての四国八十八箇所巡拝で四国では一日15km〜20km歩くから今日の散歩での体力の消耗具合を参考にしたい。


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江戸三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
2011年(平成23年)8月18日

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2012年5月8日
今日は3・4・5番3ヶ寺巡りと東京下町歩き。

5番日本橋小伝馬町.大安楽寺〜3番人形町.大観音〜4番両国回.向院の順番で周る。

12:30馬喰町駅から今日始めの小伝馬町・大安楽寺へ向かって歩き始める。
大安楽寺は地下鉄小伝馬町の真上にあり、時代劇でたびたび登場する伝馬町牢屋敷処刑場跡に建てられた。
あの吉田松陰もかってそこに投獄され処刑されている。
江戸三十三ヶ所 五番 新高野山 大安楽寺 (東京都中央区日本橋小伝馬町3-5 )



境内の小伝馬町牢獄跡石碑

江戸三十三箇所第五番札所  (出典・HP) 

大安楽寺は高野山真言宗の準別格本山である。
明治始め、麻布市兵衛町にある五大山不動院の住職山科俊海大僧正が霊がさまよえるのを感じ、江戸伝馬町の牢屋敷処刑場跡であったことから、慰霊のため寺の建造を発願した。
山科俊海大僧正の意向を聞いた大蔵財閥の大蔵喜八郎と安田財閥の安田善治郎が中心となって勧進し、明治8年に寺を建立したと言われている。
当時の寺は関東大震災で焼失し再建された。しかし、東京大空襲では被害を免れたという。
都史跡に指定されており、境内に「江戸伝馬町処刑場跡」の石碑が立っている。
江戸の牢屋敷は慶長年間(一五九六〜一六一五)に、常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。代々大番衆の石戸帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。そして、明治八年(一八七五)五月廃止されるまで存続していたものである。
「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。すなわち、面積は二、六一八坪(八六三九.四平方メートル)あり、さらに、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があった。獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦三年(一六五七)の収容因人は一三〇人であり、安政大獄(一八五九)には吉田松陰ら九十余名が収容されたこともある。



五番・大安楽寺から小伝馬町交差点に戻り人形町方面に向かう。



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二番合羽橋の清水寺からは浅草通り(俗に仏壇通り)を上野駅に向かい、駅をこえて上野恩賜公園、寛永寺境内にある六番清水観音堂へ。









六番札所寛永寺・清水観音堂は上野恩賜公園、西郷さん像から斜め前方にある。

江戸三十三ヶ所 六番 寛永寺 清水観音堂 (東京都台東区上野公園1-29 )

清水観音堂(重要文化財)は寛永八年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建されました。天海大僧正は寛永二年に、二代将軍徳川秀忠から寄進されていた上野忍が岡に平安京と比叡山の関係に倣って「東叡山寛永寺」を開きました。それは同時に、比叡山が京都御所の鬼門を守護、王城の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、江戸城の鬼門の守りをも意味しました。
そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立した中の一つが清水観音堂です。
(出典・寛永寺HPより)


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寛永寺は、寛永二年(1625)慈眼大師天海大僧正(じげんだいしてんかいだいそうじょう)によって創建されました。徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海大僧正は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立しました。
これは平安の昔(九世紀)、桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖伝教大師最澄上人(でんぎょうだいしさいちょうしょうにん)が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったものです。そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。さらに寺号も延暦寺同様、創建時の元号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。やがて第三代の寛永寺の山主には、後水尾天皇の第三皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、以来歴代山主を皇室から迎えることになりました。そして朝廷より山主に対して輪王寺宮(りんのうじのみや)の称号が下賜(かし)され、輪王寺宮は東叡山寛永寺のみならず、比叡山延暦寺、日光山万願寺(現 輪王寺)の山主を兼任、三山管領宮(さんざんかんれいのみや)といわれ東叡山に在住し、文字通り仏教界に君臨して江戸市民の誇りともなりました。(出典・寛永寺HPより)

寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約一万二千石の寺領を有しました。
そして現在の上野公園の中央部分、噴水広場にあたる竹の台には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が建立され、本寺(現東京国立博物館)には、小堀遠州による名園が作庭されました。さらに清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営され、格式、規模において我国最大級の寺院としてその偉容を誇りました。
ところが幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいました。
さらに明治政府によって境内地は没収されるなど、寛永寺は壊滅的な打撃を受けたのです。
しかし明治十二年(1879)、ようやく寛永寺の復興が認められ、現在地(旧子院大慈院跡)に川越喜多院より本地堂を移築、山内本地堂の用材も加えて、根本中堂として再建されました。
また明治十八年(1885)には、輪王寺門跡の門室号が下賜され、天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として寛永寺に迎え、再出発したのでした。幸い伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿(るりでん)」の勅額は、戦争の中運び出され現在の根本中堂に安置されています。

(出典・寛永寺HPより)


上野恩賜公園から不忍池に入り、湯島天神へ。 今日最後の寺は、明治時代神仏分離令により、その湯島天神から独立した江戸三十三ヶ所七番札所、柳堂心城院に向かう。



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江戸三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
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上野恩賜公園から不忍池へ、不忍池は上野恩賜公園の中に位置する天然の池。
池の中道を抜けて湯島へ。中道のベンチでお昼をする人が多い、近くの会社に勤務する人達だろうか。
湯島天神は映画『湯島の白梅』の舞台だが今は近代的な建物で映画の風情は感じられない。
境内に原作者の泉鏡花の筆塚もある。

江戸三十三ヶ所 七番 柳井堂 心城院 (東京都文京区湯島3-32-4 )

今日最後の寺は、明治時代神仏分離令で湯島天神から独立した江戸三十三ヶ所七番札所、柳堂心城院で湯島天神から男坂を下ったところにひっそりと建っていた。。


江戸三十三箇所第七番札所  (出典・心城院HPより)

当山はもと宝珠弁財天堂と称し、湯島天神の一堂宇であった。湯島天神は菅原道真公を祭神としているが、道真公は、藤原時平公の讒言により九州へ流されたとき、その冤罪をそそぐため聖天(大聖歓喜天・大聖歓喜自在天)様に祈念され、その信仰が篤く、ために「天満大自在天」ともいわれた。
 ときに江戸の元禄七(1694)年、湯島天神別当職の天台宗喜見院第三世宥海大僧都が、道真公と因縁浅からざる大聖歓喜天を湯島天神境内に奉安するため開基されたのが当山のはじめで、この聖天様は比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられている。当山は太田道灌時代には湯島天神の表門に当り、また道灌の皓月亭跡とも伝えられた。
 元禄の開基以来当山は湯島の聖天さまとして熱心な信者の参詣があり、有名な紀国屋文左衛門も当山に帰依された一人であった。(文学博士・林屋友次郎著『聖天利生記』抜萃)
 享保のころ、幕府の財政事情で、幕府が扶助してきた神社仏閣への支出を削減しようと富くじを発行し、江戸では谷中感応寺、目黒滝泉寺とならび湯島喜見院が公認で富くじが行なわれ、江戸の「三富」といわれ、後に江戸各所で行なわれるようになった。
当時の喜見院は相当の境域があったが、明治維新の神仏分離令の影響で惜しくも廃寺、当然喜見院の隠居所的性格をもった当山も廃寺の運命にあるところだったが、聖天様の御加護により湯島天神との本末関係を断つのみで、その難を逃れたのである。単独の寺院として歩み出した当山は、建立当時の因縁により天台宗に属し、寺名を心城院と改めた。
当山は開基以来幾度となく発生した江戸の大火(有名な振袖火事、安政の大火)、大正大震災や東京大空襲の戦災にも遭うことなく法灯を伝えてきたが、約三百年の長い風雪に耐えた堂宇は老朽化し破損が甚だしくなったので、近年に改修された。




湯島天神から男坂を下ったところが、今日最後の巡拝寺、江戸三十三ヶ所七番札所、柳堂心城院。

心城院には江戸名水の一つ「柳の井戸」があることから「柳井堂(りゅうせいどう)」と称され、これについて徳川時代の文献(江戸砂子御府内備考・紫一本・江戸志)に次のようにある。
「この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ、垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけづると云う心にて、柳の井と名付けたり。」
と記され、この名水により大正大震災の時、湯島天神境内に避難した多数の罹災者の唯一の水として生命を守り、当時の東京市長から感謝状を受けている。
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江戸三十三ヶ所七番札所、柳堂心城院をお参りして地下鉄湯島駅から帰路に着く。



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Ken & Mary's Second Life
江戸三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
2008年(平成20年)4月3日
江戸三十三ヶ所
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江戸三十三ヶ所 八番 東梅山 清林寺 (東京都文京区向丘2-35-3 )

2008年4月3日  江戸三十三ヶ所一回目
今日は東京下町散歩をかねて、江戸三十三ヶ所初めての巡拝は5ヶ寺をまわる。
地理的に歩きやすそうな11番・23番・10番・8番・9番の順に歩く。

今日4寺目は 前の十番・浄心寺前を左に下ると東大赤門前でその先左に行くと上野動物園も近いが、今日は東大方面反対に歩き右折して300メートル、日暮里方面に歩くと八番・清林寺に着く。


江戸三十三ヶ所
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江戸三十三箇所第八番札所 清林寺沿革 (出典・清林寺さんがの会HP)

浄土宗・清林寺は、東梅山花陽院清林寺と号す。 その創建は、文明十五 (1483)年で、鎌倉光明寺八世貫主の祐崇上人によって開山された。 清林寺は当初、武蔵国豊島郡神田三河町四軒町にて境内1080坪の拝領を受けて創建された。その後、清林寺は慶長18(1629)年に神田三河町四軒町から神田川柳原移転し、慶安元(1648)年に、現在清林寺が所在している駒込蓬莱町(現・東京都文京区向丘2-35-3)に移り、創建時の如く1080坪を拝領し、今日に至っている。江戸の元禄時代より清林寺は、「江戸三十三か所観音札所」の一つとされ、今日までその伝統は続いている。 また近代においては、明治維新による廃仏毀釈をはじめ、大東亜戦争において米軍機による東京大空襲で罹災するなど受難の時があったものの、戦後の再興を経て現在へと、約530年間の伝燈が続いている。 清林寺を創建した祐崇上人は、応享11(1439)年13歳で鎌倉光明寺七世照山慶順上人の下で剃髪受戒された。その後、佑崇上人は、若干27歳で千葉の木更津に選択寺を建立したる それ以来祐崇上人は、京都山城に永養寺を起立し、文明14(1482)年に鎌倉光明寺八世貫主となられた。 祐崇上人の代となってからの光明寺は、関東六派の本山号を賜った後、慶長13(1608)年、徳川家康によって関東十八檀林の首位とされ、関東における浄土宗の中心となった。 祐崇上人が鎌倉光明寺八世貫主となられてすぐ建立された寺がまさしく清林寺であった。清林寺に続いて祐崇上人は、品川に願行寺を創建された。 明応4(1495)年に祐崇上人は、宮中に上洛参内し、天皇陛下に21日間におよぶ阿弥陀経講義をされた。
ところで、今日の清林寺においては、春のお釈迦さまのお誕生日にはサントリーホールにおいて「花まつりコンサート」を、秋には読売ホールにて各界で活躍する著名文化人を講師に迎えて「秋の講演の夕べ」を開催するなどの文化活動を毎年行っている。 その他、清林寺の境内において飛鳥様式による三重塔の復元建築の建立を発願し目下鋭意その建設中である。
また清林寺から世界平和を祈念して、その教えを世界に発信すること実現するべく英語、ロシア語、ラテン語など、25カ国語に翻訳した『般若心経』その他の仏教書の刊行をするなどの出版活動を行うと共に附属機関として、「宗教文化科学研究所」を開設して仏教経典はじめ宗教、文化、歴史などを中心とした研究活動も行っている。


本堂横で三重の塔を建設中。


次は本郷通りに戻り今日最後の九番定泉寺へ向かう。



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江戸三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
2011年(平成23年)8月18日
江戸三十三ヶ所
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江戸三十三ヶ所 九番 東光山 定泉寺 (東京都文京区本駒込1-7-12 )

008年4月3日  江戸三十三ヶ所一回目
今日は東京下町散歩をかねて、江戸三十三ヶ所初めての巡拝は5ヶ寺をまわる。
地理的に歩きやすそうな11番・23番・10番・8番・9番の順に歩く。
今日最後のお寺は八番・清林寺から本郷通りに戻り九番・定泉寺(東京都文京区本駒込1-7-12)。



江戸三十三箇所第九番札所定泉寺 (出典・定泉寺HP)
定泉寺の縁起
元和7年(1621)本郷弓町にあった「太田道灌の矢場跡」を旗本蜂屋九郎次郎善遠が拝領し、その地に堂宇を建立。増上寺定誉随波上人を開山に迎え、東光山見性院定泉寺と号した。その為江戸時代「矢場の定泉寺」といわれた。明暦の大火後現在地に移り今日に至っている。現在地に移転してきた当時は、本堂庫裡、山門鐘楼等が建てられ、なかんずく鐘楼に納められていた鐘は、武州江戸丹波守藤原重正の作で、黎明を破り月光にほえる響は駒込の名鐘の一つと称された。また、本堂内に本尊阿弥陀如来と共に観世音菩薩が奉安された。この観世音菩薩について享保20年開版の様子には参拝が絶えずとあり、昭和新撰に再び第9番札所として、伊勢「白子の悟真寺」より当寺へお迎えしたものである。当寺内には、御府内随一とされる「宝廉印塔の六阿弥陀」があり、印塔の六面に御姿が刻され、大変珍しいといわれている。また、同じく江戸時代の作で特徴ある「五重の層塔」、更に、歴代住職の墓の中で「中興開山登誉見道上人の墓」が家形墓石で、その中に内仏として観音さまが座しておられるのもまれであると評価されている。当山門前を入った左側にある夢現地蔵の堂内にある花立に「弓の絵柄」が彫り込んであり、矢場跡を知る。他に本郷金助町ゆかりの「牧野金助の墓」江戸時代の書家「林家川崎の墓」がある。 
     


九番札所を最後にし帰りは白山通り水道橋に向かって歩く。


東京ドーム前は長い行列ができている。
開幕まもない巨人X中日戦のナイターの行列だった。阪神ファンだった小学生の頃、夏休みに必ず後楽園球場で巨人X阪神を見に行った。
美味しいそうな香りが漂っている。後楽園のホット・ドックだ。ここでしかない?
ホット・ドックは東京ドームとなっていてもその香りは当時のまま。
子供の頃食べたホット・ドックの美味しさは今も忘れない。同じ香りがなつかしい。

江戸三十三ヶ所
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番外
ナイターの行列を横目に見過ごしながら水道橋へ。帰路に着く



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江戸三十三ヶ所 十番 湯壽山 浄心寺 (東京都文京区向丘2-17-4 )

2008年4月3日  江戸三十三ヶ所一回目今日三寺目は十番・浄心寺
23・11・10は白山駅から横に並んでいて解り易い。 本堂前は見事な桜の木が満開なんと美しいこと。


入口左に大きな布袋様             


江戸三十三箇所第十番札所 浄心寺・縁起  (出典・浄心寺HPより) 

浄心寺は、元和2年(1612年、徳川2代将軍秀忠の頃)に畔柳助九郎氏が大旦那となり、還蓮社到誉文喬和尚を開山上人とし、湯島妻恋坂付近に創建されました。その後、八百屋お七の振り袖火事として知られる江戸の大火により焼失し、現在の地に移転しました。
第二次世界大戦でも空襲に遭い、焼け野原になった中から第23世住職・小池政雄和尚と千代夫人が檀信徒の協力を得て、今日のような復興と発展を遂げました。
政雄和尚は、江戸観音札所の第10番に指定されている「子育て桜観音」こと十一面観世音菩薩像をはじめとする阿弥陀三尊像、四天王像、虚空蔵菩薩像等、仏像の建立に力を注がれました。
戦争で受けた傷から右足をなくし「一本足の和尚さん」と呼ばれながらも、明るく精力的に活躍され、多くの人々に慕われていましたが、平成17年9月に逝去いたしました。
観音霊場巡りが盛んだった江戸時代には、江戸三十三観音霊場、山の手三十三観音霊場、深川三十三観音霊場など、いろいろな観音霊場がありましたが、昭和五十一年(1976年)に昭和新撰江戸三十三観音霊場として新たに生まれ変わりました。
浄心寺の本堂の正面真中におまつりされている仏さまは阿弥陀如来(仏)、向って右が十一面観世音菩薩、左が勢至菩薩です。菩薩とはもともとは仏になるために修行する人のことをいいましたが、観音菩薩や勢至菩薩は阿弥陀仏の分身として働きます。阿弥陀さまはすべての人をお救い下さいますが、阿弥陀さまが、慈悲として働かれる時には観音菩薩をつかわし、智慧として働かれる時は勢至菩薩をつかわされます。十一面観音(じゅういちめんかんのん)は、その深い慈悲により
衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す仏であるとされています。 


納経・ご朱印を待つ間しきりに話しかけられた浄心寺の可愛いお子さん二人。

江戸三十三ヶ所
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次は今日4寺目の八番寺清林寺へ。
寺の前を左に下ると東大赤門前でその先左に行くと上野動物園も近い、今日は東大方面反対に歩き右折して300メートル位、日暮里方面に歩くと八番・清林寺だ。



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江戸三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
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 巣鴨平和霊園で兄のお墓参り

2008年(平成20年)いい天気だが頭を振ったり顔を洗ったりすると原因不明な頭痛が続き毎日だが、気になりながら出かける。毎年桜の時期は兄の命日、巣鴨平和霊園でお墓参りをしてから札所をめぐる。

江戸三十三ヶ所 十一番 南縁山 圓乘寺 (東京都文京区白山1-34-6 )

今日は東京下町散歩をかねて、江戸三十三ヶ所初めて、5ヶ寺をまわる。
地理的に歩きやすそうな11番・23番・10番・8番・9番の順に歩く。
最初は東京都文京区1−34−16 、十一番札所・円乗寺。


巣鴨駅から地下鉄都営三田線で白山駅下車。
今日廻るお寺は白山駅周囲に散らばっていて、山手線上野、日暮里、駒込などに囲まれた中にあり江戸情緒がつまった地域にある。駅前大通り(旧白山通り)を渡り住宅街の中にある八百屋お七のお墓で知られた最初の寺は十一番円乗寺。
天台宗 南縁山 正徳院 圓乗寺 天正9年(1581)に密蔵院として開創。


八百屋お七の墓
お七は本郷森川町(駒込片町説もある)で有数の八百屋を営む市左衛門(久兵衛)の娘であった。天和にお大火(1682)で菩提寺の円乗寺に避難しそこで寺小姓の山田佐兵衛(生田庄之助・吉三郎)と恋仲となった。新築された家に戻っても佐兵衛に会いたいばかりに翌年に火をつけた。火はぼやですんだが、16歳と正直に歳を言って処刑になった。
15歳までは処刑にならなかった。お七は市中引回しのうえ、鈴が森(小塚原説もある)で火刑に処せられた。佐兵衛(吉三郎)については、どうしようもない不良で共に処刑になったという説や仏門に入ったという説がある。墓は3基あるが、中央は寺の住職が供養のために建てたもの。
右側は寛政年中岩井半四郎がお七を演じたのが縁で建立、左側は近所の人が270回忌法要のために建てたもの。   

次は白山駅を背にして10分程でやはり住宅街の23番大円寺に向かう。


江戸三十三ヶ所
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